父の死に思う
2023年2月3日に父が亡くなりました。私は父が嫌いだったので寂しいという感情はありません。悲しいという気持ちも湧かないと思っていたのですが、いざ色んなことが終わってみると悲しいという気持ちや後悔の念があることに気づきました。
父は暴力的で自分勝手で気の小さい男でした。世が世なら、発達障害と判断されていたような人だったと思います。もちろん、父の時代にそんな捉え方は無かった、あったとしても一般的ではなかったでしょう。父が生きた時代は良い時代だったのかもしれません。
父は満83歳で亡くなりました、寿命としては十分だったと思います。その一方でもっと短くてもよかったのではと思うこともあります。これは早く死ねばよかったのにという意味ではありません。
昭和20年代から30年代にかけて青春を過ごした父にとって、平成、令和は生きにくい時代だったように思うのです。そんな中、ゆったりと時間の流れる鹿児島の田舎で、時間の流れに逆らって最期を迎えることができたのはせめてもの救いだったと思います。自分も20年ぶりに頴娃を訪れ、昔と変わらない風景や人を見てそう感じました。
人生100年時代といいますが、時代の変化の速さを加味すれば相対的な寿命はもっと長いのかもしれません。
そう考えた時、父にとって良い死に時があったかもしれない。そしてそれは自分たちにもあるはずだろう。
「生きづらさ」という言葉を聞きますが、現代人が抱えている問題は「死にづらさ」ではないかとこの3年間で考えるようになりました。父の死に際して、あらためていかに生きるかではなく、いかに死ぬかを考えるべき時が来ていることを感じました。