思考の切れ端
ひとつの記事にするほどではないけれど、日々考えたことなどを書き留めていきます。
視野は広く持とうと思う。しかし、人によってはそれを「論点が曖昧」と感じたり「評論家的」と感じる人もいるようだ。人がどう思おうが気にはしないけれど、とはいえ人と関わりながら生きている以上は無視もできない。 なかなか、難しい。
等身大ってのがええね。「社会のために」みたいなキラキラワードばっかりじゃ嘘っぽい、「あれダメこれダメ」みたいなネガティブなトーンばかりではしんどい。人間誰しもどっちの感覚もあって、普通に感じてることは大抵の人は同じように感じてるので、普通に感じたことを共有しあえれば、大抵のことは大きく意見が違わないと思う。でも、よく見せたい、思慮深く見せたいみたいな欲がそれを狂わせているような。普通に自然体で、等身大の自分で生きられるようにしたい。
誰かに何かを教える時、「指導」するのではなくて「共有」するのがいいということをあらためて実感した。自分が教えてもらう時にも「あなたのやり方を共有してください」というのが、相手に負担が掛からず自分が知りたいことを知る手段として適切。共有されたものを読み解く力は必要だけれど。
「こだわる」とは「頑に変化を拒む」ことではなくて、「すべてのことに意味や理由を持つ」ということ。「なぜそうしているのか?」の問いに答え続けられる間は「こだわっている」し、その意味は変化しても良いと思う。時は流れるわけだし、変化したからといって「こだわり」を失ったことにはならない。
「誰一人取り残さない」危険な言葉やなぁと思う。
「選択肢」というのは「始める」という選択と「やめる」という選択の両方が合わさって「選択肢」となるべきなのだろうなぁ、と最近思います。
Virtualが「事実上の」「実質上の」という意味だということを知って、VRに対する理解が一気に進んだ。
子ども向けのプログラミング作品コンテストのあり方をコンテスト運営者のみなさんにはぜひ考え直してもらいたい。コンテストを成立させることが目的ではなく、新しい才能を発掘できる場にして欲しい。やり方によっては才能を潰してしまうかもしれない。
ポジティブな発信をしなければならない、ということが閉塞感を産んでることもあるので、僕みたいにダークサイドな存在も必要悪としていられるのだと思う。 #ダークサイド好きの人とつながりたい #駆け出しシスの暗黒卿とつながりたい
リーダーの力量がない人が組織を自分のものにする方法を教えましょう(つまり、良いやり方ではないという意味)。まず外側に共通の敵を作ります。共通の敵がいることで組織に一体感が生まれます。
「私もわかさんって呼ばせてもらってもいいですか?」とか「どのタイミングでわかさんと呼んでいいか迷ってました」とよく言われるのですが「はじめまして」の次の瞬間からで大丈夫です。子どもの頃から「わか」「わかさん」「わかさま」なので。 #よくあるご質問 #定期
ATMを操作した時「時間帯によって手数料がかかります」って棒グラフを見せられるんだけど、ユーザーが知りたいのは「今いくらかかるのか」なのでそれを表示すべき。手数料を取る仕組みがあるんだから、簡単にできるはず。
思考ってのは抽象化と具体化の繰り返し。どちらかができない人が思考停止に陥る。
子育て支援って大きく2つあって、子どものためになることと子育てする大人のためになること(それが間接的に子どものためになるって話は無しで)。今、世の中で求められている子育て支援とは「直接的には子どもたちのためになることで、それによって大人が喜ぶこと」じゃないかな。
小学生ぐらいの時に「電車の中では座らずに立つように」教えるのやめた方がいいと思う。電車のシートは楽するためじゃなくて、安全のためにある。優先座席でも空いてるなら座った方がいい。自分よりも必要とする人が来れば譲ればいいだけの話。必要なのは「座らない人」ではなくて「譲れる人」
プログラミングの話をするとアルゴリズムとか言い出して手順だ、ロジックだという輩がいるが、アルゴリズムを考える上でデータ構造というのも大切だってことを忘れるな。ロジックとデータ構造のバランスを考えるのが難しく楽しい。