犠牲的アーキテクチャ

最近Facebookで繋がってくださった方のblogを読んでいて見つけた記事、色々思うことがありました。
神宮式年遷宮と犠牲的アーキテクチャ

まず、「犠牲的アーキテクチャ」なんて言葉を知らなかった。その言葉を知っていることが大切かどうかはさておいても、新しいものに触れてないことに気づいたので、もうちょっとベクトルを変えて色んなものに接しないとなということ。

また、「犠牲的アーキテクチャ」ということにも深く関心を持ちました。なにしろ「資産」という名の足かせとお付き合いすること幾年月でしたから。

そんな中、10年ぐらい前に開発した新しいPOSの設計で、UI周りのミドルをゼロから設計しなおしたことを思い出しました。結果的に、営業(ドイツ人)には使いやすい、分かりやすいと褒めてもらったけれど、アプリ開発者からは「開発が遅れた」と文句言われました。その前の設計がひどかった(というか設計せずに仕様をそのまま実装したって感じでしたが)ので、あのまま行ってたら「遅れた」どころか「できなかった」という結論になっていたと思うので、今でもあれは僕が正しかったと確信しています。

古いアーキテクチャはいつか捨てられなければならない、そのタイミングを間違うと不幸になる。サービスやプロダクトにライフサイクルがあり、作るときに終了を見越しておくのが当たり前のように、アーキテクチャのライフサイクルを考えておくということは当然だな、その視点はなかったなと思いました。その手法として「コンポーネント化」を挙げているblog主に賛同します。私、「コンポーネント原理主義者」なので。