目黒のさんま

突然ですが、落語の「目黒のさんま」をご存知ですか?

外出先で立ち寄った長屋で「焼きさんま」をご馳走になった殿様が、お城に帰ってからも「さんまを食べたい」と言います。しかし家来達は「骨がささっては大変」と骨を抜き、「脂は体に悪い」と脂を抜き、カスカスになった「さんま」を食べられるものにするために「さんまのつみれ汁」にして殿様に出したところ、殿様は「これは、私の知っているさんまではない」という噺です。

私は、日本製品が魅力的でなくなったという話を聞くにつけ、この「目黒のさんま」を思い出します。

メーカーのモノづくりにおいて、着想時点では面白いアイデアのものがたくさんあります。決して、アイデア段階からつまらないものばかりではないのです。

しかし、そのアイデアを商品化するプロセスの中で「利用者が正しく使えないかもしれない」「悪意のある利用者に、悪用されるかもしれない」と「改良」が繰り返された結果、できあがったモノが「魅力的でない」モノになってしまっています。この構造は「目黒のさんま」そのもの。

一見、この噺の家来達は「殿様の健康を考え」、メーカーは「利用者のことを考え」という意味で共通しているように見えるのですが、実は「家来」と「メーカー」が保身を考えた上での行動。という意味で共通していると私は考えています。

噺の中の家来達にそのような悪意は感じられませんが、これが実話であったなら家来の中には自己保身を考える者もいたでしょう。

「焼きさんま」を殿様にお出しして殿様に何かあれば、例えそれが些細なことでも家来が責任を取ることになります。最悪は切腹です。

メーカーも利用者の誤用によって事故が起こったり、利用者からクレームを貰うことになれば、何らかの責任を取らなければなります。

もちろん本当に殿様(利用者)のことを考える家来(メーカー担当者)もいるのですが、少なからず自己保身に走っているケースもあるのです。

また、家来達はできあがった「さんまのつみれ汁」を見て「美味しそうだ、自分が食べたい」と思ったのでしょうか? おそらく、そんなことはなかったのでしょう。

モノづくりにおいても同じことが言えると思います。担当者自身が「これを欲しい、自分が使いたい」と思っているかどうかが大切になります。

「自己満足になってはいけない」とも言われますが「顧客視点という名を借りた自己保身」に走るぐらいなら、少しは「自己満足」があっていいと思います。

では、すべては家来とメーカーの責任なのか?そうではありません。 殿様も、普段はわがままを言い散らしているに違いありません。そんな殿様を知っているから、家来は萎縮してしまうのです。

利用者とメーカーの間にも、このような関係ができてしまっています。どこで線を引くのか?明確な線引きは難しいでしょう。

しかし利用者にとっても、メーカーにとっても不幸な結果をもたらしている今の構図を見ると、双方が対話し歩み寄ることが、日本のモノづくりを復活させるために必要な要素のひとつだと、私は考えています。

さんま

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