現地でしかわからないこと ― 防災教育に求められる支援者の視点
1995年1月17日から今日で30年が経ちました。関西に住む私たちの世代にとって、震災と言えば東日本や能登よりも、やはり阪神・淡路大震災の記憶が蘇ってきます。
私が実際に災害現場へ入ったのは、阪神・淡路大震災(1995年)の時と丹波の豪雨災害(2014年)の2回だけです。しかし、その経験を通じて防災教育に必要だと感じたことがあります。
私が見たこと、聞いたこと
阪神・淡路大震災で
現在の災害支援の力となっている市民活動やボランティア団体は、阪神・淡路大震災のきっかけに活発化しました。NPO法が制定されたのも阪神・淡路大震災がきっかけです。つまり、当時はそういった活動が十分ではなかったのです。
インターネットもまだ一般には普及しておらず、ネットでのやり取りは、電話かパソコン通信による文字だけの掲示板が主流でした。携帯電話もまだ一般的ではなく、もちろんLINEなどもありません。
そんな時代でしたが、地元の放送局の呼びかけやパソコン通信のグループなどで被災地支援の活動が広がっていきました。私も地元のFM局の呼びかけで行われた被災地への物資輸送で西宮の小学校へいきました。
その時に見たのは、初めて見る多くの崩れた家屋が広がる光景。
そして、その崩れた家屋の間に捨てられていたコンビニエンスストアの袋が強く印象に残っています。それは、支援者が持ち込んだ物資の残骸であると考えられます。確かに風景を見るとそこは瓦礫だらけではありますが、その袋が捨てられている場所は、住民にとって大切な場所であり、時には命が失われた場所でもあったかもしれません。
でも、その袋を捨てた人にとってはただの瓦礫にしかみえなかったのでしょうね。
信号が機能していない道で、交差点を猛スピードで突っ込んできた車(現地で被災された方の車です)に轢かれそうになり一瞬怒りの感情を持ちましたが、それだけ現地の方は追い詰められていたのだと思います。その時に自分も被災された方の気持ちがわかっていないのだなと感じたものでした。
悪いことばかりではありません。私たちが目的地である西宮の小学校に着くと元気なおじさんが出てきて「ご苦労さん、大変やったな、温まっていき」と炊き出しの粕汁かなにかを配ってくれたりして「いや、これあんたらのやん!」と思いながら、元気な人がいてよかったなと思うこともありました。
丹波豪雨災害で
丹波の豪雨災害の時は、西山酒造場の醸造所へお手伝いに行きました。やったことは泥まみれになった瓶を洗うことでしたが、それはそれでかなりの重労働でした。
お昼ご飯の時間にお話を伺ったところ、瓶を洗っているのは商品として復活させるためではなく売り物にならなくなったお酒の数量を出して国税に申請するためということでした、そうしないと酒税がかかってしまう。大きな被害を受けてもう一度お酒を作れるようになるまでにどれだけ時間がかかるだろうか?と言う時にですよ。
「こんな時になに言うてんねん国税!」と思ったものです。
しかし、それもまた災害復旧の中で避けられない厳しい現実であり、現地に行かなければ知り得なかったことでした。
現地でしかわからないことがある
多くを語れるほどの経験はない私ですが、それでも現地に行かないとわからないことがあるものだと思いました。
本人は善意のつもりだけど、かえって被災現場の負担を増やしてしまうようなこともあります。「せっかく来てやっているのに」という態度で、ボランティアセンターの職員に食ってかかる自称ボランティアも見かけました。
災害支援に全力で取り組むつもりで現地に向かっても、実際には一日に活動できる時間が限られていることも知りました。
こうした災害現場の課題を現地で初めて知るのではなく、防災教育の一環として事前に学んでおくことで、大きな違いが生まれるのではないでしょうか。
支援者の視点を取り入れる
現在の防災教育は、地震時の安全確保や非常時の備えといった『被災時の対応』が中心です。昨年(2024年)参加したとある中等学校の発表会でも、こうした内容が主なテーマとして取り上げられていました。
もちろん、これらの教育は必要不可欠です。しかし、それだけでは災害時の現実に十分対応できないと考えています。支援者の視点を持つ教育は、これからの防災教育に不可欠な要素と言えるでしょう。
- 災害時、被災していない私たちが取るべき支援の行動を学ぶ
- 支援を行うために必要な組織との連携方法を知る
- 支援者として適切な態度や姿勢を身につける
こうした視点を防災教育に取り入れることで、被災者と支援者の双方がより良い災害対応を実現できると考えています。
最後に
30年という年月が経ち、制度の整備なども進みましたし、当時なかったインターネットもできました。でも支援する人のマインドはまだまだアップデートが必要だと感じます。
また、支援者がどのように行動すべきかも時代とともに変化しています。インターネットは情報伝達には非常に便利な一方で、デマが拡散されやすいという負の側面もあります。そのため、情報を扱う際のリテラシーが求められます。
災害発生時にどのように支援できるのかを常に学び、アップデートすることは、災害の多い日本で生きる上で欠かせない基礎スキルです。
追記
初出時、1995年当時の通信事情を誤って記述していました。そのことに気づいて、SNSに投稿したところ当時の様子がわかるコメントをいくつかいただきました。当時のことがわかる貴重な情報なのでまとめておきます。
1994年末にクルマで事故ったのですが、近くに公衆電話がなくて警察等に連絡するのが大変でした。たまたま通りかかったお金持ちそうなクルマに自動車電話がついていたのでそれで連絡してもらいました。そんな感じだったので携帯電話も全然普及していない頃だと思います
地震のとき、固定電話が繋がりにくかったけどアナログmovaは比較的よく繋がったと聞いて、持ち始めました。
ポケベルの方が多かったのでは?(知らんけど)
ケータイ📱は会社で何台か契約し特に必要な人に当てがってましたね。営業だと大体部長とか課長が持って行きました。あと固定電話は掛からなかったですがISDN公衆電話は別で普通に通じました。地震当日の神戸方面の社員の安否確認に重宝したこたを今でも覚えています。
僕が96年に大学生になったので、そのあたりの変遷はよく覚えてますねー。1年の時はポケベル全盛で、PHSが普及しかけてて、学年で1人だけ携帯持ってるヤツがいて「スゲー!」「電波繋がりやす!」ってなってました。あっという間にポケベル持ってるヤツがいなくなり、PHS全盛になって、院生になる頃にはどんどん携帯に置き換わってました。ちなみに3年生の時にイネの成長を観察してレポートする課題が出ましたけど、デジカメ(今で言うコンデジ)で撮影して書いたのは僕だけで、先生も「写真で提出してきた学生は初めて」って驚いてましたね。
阪神淡路大震災の被災地で10円携帯のビラが出始めて、端末本体はほぼ無料でも基本料と通信料だけでペイできることが分かり、その後被災地だけでなく全国的にしばらく本体無料の時期があったかと記憶しています。それが国内の携帯普及の契機のひとつかなと思います。
そうでしたね。阪神間在住の病院スタッフと、連絡が全く取れませんでしたね。1週間生存確認できないなんて、ザラだったことを覚えています
imodeゲームを担当してたので1999年imode開始というのは脳裏に刻まれてますが。買い切り制が1994年でそこからじわじわと増えてはいたけどまあまあ普及に時間かかってますね。
どれも確かにそうだったと思えるコメントです。自分はポケベルも使ってなかったの、自分ごとではなかった。だから当時の外出時の通信事情を覚えていなかったのだと思います。