ポスト資本主義とは脱一物一価であると思う

機会があれば(滅多にないけど)「ポスト資本主義とは脱一物一価であると思う」ということを話しているのですが、今考えていることを記録として残しておこうと思います。経済学も社会学も学んだことのない素人の意見なので、全部知らんけどをつけて読んでください笑。

何を突然!?と思われるしれませんが、たとえばこういう記事を読んでいても、ポスト資本主義ってなんだろ?、社会OSってなんだろ?というのがイマイチ「ピン」と来ないんですよね。そこを自分なりに考えてひとつの答えを出してみようということです。

その結論を一言で言うと「脱一物一価(だついちぶついっか)」だということです。一物一価についてはこちらを読んでください。同じ商品は同じ値段であるということですね。コンビニのペットボトルの飲み物は東京で買っても北海道で買っても沖縄で買っても同じですよね、そういうことです。

物の売り買いというのは価値を交換する行為です、その価値の交換をしやすくする仕組みがお金です。お金というのは価値ではなくて価値を交換する仕組み(システム)と考えた方が良いと思います。お金というシステムがあるから、みんなが同じものを同じ価値で交換することができる。

でも、実際のところ物の価値というのは一定ではない。本来であれば、ある一つのものに対してどれだけの価値を認めるかというのは人(その人の置かれている状況)によって違うわけです。極端な例でいうと、コンビニで100円で買える飲み物(いや、もう100円で買える飲み物なんてないか)を砂漠の真ん中に持って行って売ればもっと高く売れると思います。

これは極端な例ですが、私たちの身の回りでもこういうことは起こっています。いわゆる「転売」がそのひとつ。なかなか手に入りにくいPlayStation5が定価よりも高い金額で取引されているのは、それだけのお金を出しても欲しいと認めている人がいるからですね。

ちなみに、私は転売に対しては否定的ではありません。世の中の経済活動は基本何かに付加価値をつけて誰かに買ってもらうもので広く考えればすべての経済活動は転売だからです。 今、世の中で「転売」として問題になっているのはどちからというと「買い占め」の方かなと転売するために買い占めするやつらが多いのが問題だと思ってます。もうメーカーが直接オークション形式で販売すればいいのにと思いますが。

ひとつの製品が同じ価格にならないとしたら、コンビニで売ってるペットボトルの飲み物の値段は都会と田舎で値段が違う。 お米の値段が都会と田舎で違う、ということになる。 前者は都会の方が安くなるだろうし、後者は田舎の方が安くなる。それらのバランスを取る経済の仕組み、社会の仕組みが社会OSみたいな位置付けになるだろうと思っています。

一物一価の原則が崩れた時、価値観の違う社会同士の分断が起きるかもしれません。僕はそれでいいと思っています。それよりもお金というシステムの上でみんなが同じ価値観を共有し続けようとすることの方が無理があると思うんですよね。